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2020/01/02

それは争いを生みたかったのではない

出来ることなら辛い思いは避けたいし、
悲しい思いもしたくない。
救われたいし出来れば報われたい。

多くの人はそう願うであろうし、
そうであることは間違いじゃないはずと思う。

宗教は、そんな人々の心と共にあり時には人々の心を支え、時には導くものだと思う。

色んな宗教、色んな考え、色んな言い伝えがあるこの世界では、それぞれを心から大事にしている人たちが存在する。

でもいつの間にか、大事にしているものが違ったもの同士はその違いによって争いをはじめてしまうこともある。

キリスト教の家庭で育った私が16歳の時にマレーシアに留学し、イスラム教の友達がたくさんできた。親友と呼べる人もできて、毎日良くしてくれたし楽しかった。
ある日彼女たちが私に泣きながらイスラム教になってくれと泣いてお願いしてきた。
こんなに大事な友達になったのにキリスト教じゃ死んだ後に救われない、助けたい、と。

私はその状況をここまで大事に思ってくれることは嬉しいと思いつつもこの状況そのものが人々の争いのはじまりの象徴だと思った。

誰かにとって大事なもの、誰かの心の支え、それは全てが一致するわけじゃない。
でも自分と違ったもの以外を否定するのは正しいとは言えない。

宗教に限った話じゃない。
いま隣にいる人が大事にしているものを尊重できているでしょうか、いや、同じものを大切にするもの同士でさえどちらが上か下か、どちらの価値の方が高いかを争おうとしていないだろうか。

そんな世界じゃ救われるものも救われない。

誰もが分かり合うはずのない者同士、
同じ言語での言葉でさえとても曖昧なもの。
通じ合うなんてことはそもそも難しい。

今隣にいる人、大事にしたい人、その人の大事にしているもの、背負っているもの、それらに対しての敬意を持ってこそその間に関係が成り立つものと思う。

脆すぎる人間と人間の関係はその敬意が無くなれば関係の死のようなもので、無関心もまたそれに当たると思ってる。

争うためじゃない場所で争うのはもうやめませんか。